名前をつけられない

日記の練習

偽先輩

金子くんと飲んだ。金子くんと一緒に働いたことはないが、関わっていた媒体から僕が離れたあとにその媒体に入ったので、すれ違いの先輩後輩みたいなものだ。時々会ったり、少し仕事を頼んだりもしている。
金子くんも今はその媒体を離れているけど、彼と一緒に働いていた山本さんともなんやかんやで会うことが多いので、すれ違いの先輩はうっすらと慕われているのかも知れない。


何も専門性を持たず、トレーニングも受けずにここまでやってきてしまった人間からすると、20代の彼と彼女が身につけている能力には嫉妬もするし、いちおう同業者として対抗意識も持っていたりするのだけど、あまりそういうヒリヒリしたものは伝わっていないようなので、ああ、自分は年を取ったなと時々考える。


金子くんは悩んでいた。その中身は書かないけど、こちらもなるべく嫉妬と対抗意識を隠さずに、思うところを言った。


君はもう十分すぎるほど、すごいものを持ってるじゃん。28歳でそんなに持ってるの、悔しさしか感じないよね。それをドブに捨ててくれるなら、ありがたいけど悔しいよね、やっぱり、とかなんとか。
向こうも答えをなかばすでに決めながら、手を変え品を変えその答えを肯定させようとしてくるので、こちらもあれやこれやとかわしつつ、結局は反対弁論に終始してしまう。対抗意識は扱いにくい。


僕、柳瀬さんに何も返せないと思うんですよね。そんなことを言われた。山本さんにもそんなことを最初は言われた気もするけど、彼女からはとっくにそんな殊勝さは消えてしまっていて、最近は初対面の人の前でおじさん呼ばわりしてくるほどなので、金子くんのそういう謙虚さがやけに新鮮だった。時折、ささやかにマウンティングをしかけてくる小憎らしい若者は、昨日はいなかった。


25歳で書店に就職して、2年目くらいから色々な人から目をかけてもらえるようになった。憧れの対象でしかなかった人も、昔から知っていたかのように接してくれた。都心の書店員は、多かれ少なかれこういう経験をする。そこにはいろいろな理由がある。業界の事情で、実力以上にちやほやされてしまう面も拭い難くある。


業界事情から離れたところでそういう人たちと付き合えたのは幸いだったけど、3年目か4年目くらいに、目をかけてもらえることの苦しさを感じるようになっていた。同時に、相当に自惚れてもいた。書店は丸5年働いたところで辞めてしまうのだが、これだけの縁があればなんとかなるだろうとタカをくくっていた部分がある。そこから7年くらい、自分がやりたいと思っていたような仕事から遠ざかるばかりで、目をかけてくれた人たちも遠ざかっていった。

いや、こちらから遠ざかった。あの時の評価に見合う何者かになるまで会えない、そう思ってしまっていた。


朝方4時くらいに、同じ夢に起こされる。会えなくなった人たちがいる。みな楽しそうに話している。最近何をしてるの? と聞かれる。口の中がねばねばして、言葉が出てこない。そもそも言えるような材料もない。話の輪に入れない。現実にも、何度かこういう場にいたことがあるから、現実と夢の記憶が今では混ざってしまっている。


朝4時、妻も子どもも寝息を立てている。寝相が悪かった長女はたいてい妻の足元に転がっているので、元の場所に戻して布団をかける。そこからは、まったく寝付けない。会えなくなった人たちに会ったときに、何から話せばいいのか、そればかり考えてしまう。返せない借金を抱えて生きているような気がしていた。本とか活字とか、まったく無縁の仕事に就いたほうが楽だろうか。スーパーに行っても牛丼屋の前を通っても、求人ポスターを必ず見ていた。深夜の時給、もうちょっと上がらないものか。


職場をいくつか変えて、最後の勤め先で、ようやく自分が全身全霊を込めたと言える本を一冊だけ作ることができた。ちなみに金子くんはその著者の教え子だ。若い頃の自分には、まったく関心のなかったテーマの本だった。


結局、その一冊だけを手掛かりにして会社を辞めて、失敗を繰り返しているうちに、若い頃とは違う世界で、自分なりに納得できる仕事をできるようになっていた。
目をかけてくれた人たちの何人かとも再会できた。編集した本の一冊の帯に、とくに親切にしてくれた二人のコメントをもらえた時に、もう借金は返せないけど、この人たちに返さなくてもいいんだ、と初めて思えた。


若い頃にあの人たちから借りたものを、金子くんや山本さんに手渡しているかといえば、全然そんなことはない。話のわかる偽先輩の顔をして、彼らから吸い上げているものだってある。ただ、借金の重さに眠れなかった朝からようやく抜けだした偽先輩は、それ、返さなくていいから、とすぐに言えるようになっていた。それだけが、偽先輩が彼らに渡せる駄賃のようなものなのかも知れない。


帰りたくない悩める偽後輩と深酒したせいで、途中の駅からタクシーに乗るはめになったし、午前中はずっと不調だった。その借金は、何らかのかたちでカタをつけさせようと思っている。